「南北戦争当時、フォレスト将軍の部下には自分の奴隷だった黒人兵士が44人もいたそうで、しかも、このうち8人は士官だった。おそらく、アメリカ軍初の黒人士官だったはずだが、黒人だけに黒歴史になってるらしい。さらに終戦時には60人に増えていた。
しかも、この黒人たちは読み書きができたらしく、彼らの書いた書類とかサインが現存している[2]。当然、黒人奴隷は学校になんて行けないのに、この黒人達はいったいどこで読み書きなんて覚えたのかというと、実は、全員がフォレスト荘園の出身で、フォレスト将軍はなんと、自分の奴隷達に読み書き計算を教えていたのだ。」
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八切止夫作品集 via
「古くは源平合戦の起因となる神戸福原からの原住民を奴隷輸出された事実や、室町時代においても、四国の三次氏や山口の大内氏は、日本原住民を捕らえこれを明国や南蛮船に売っていた。」
八切止夫作品集 via
戦国時代に切支丹大名が多かったのも、信仰の為ではなく火薬入手の手段だった。
判りきったこんな明白な歴史事実でさえ、明治軍部は国民を無謀な戦争にかりたてるため、(国内に火薬の原料なし)を隠すために歴史屋を黙らせたのである。」
高山右近 - Wikipedia via
「慶長19年(1614年)、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去した。長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着した。
イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペイン人のフィリピン総督フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けた。
しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、翌年の1月8日(1615年2月4日)に息を引き取った。享年64。
葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげてイントラムロスの中にあった聖アンナ教会で盛大に行われた。
右近の死後家族は日本への帰国を許され、現在、石川県羽咋郡志賀町代田、福井県福井市、大分県大分市に直系子孫の3つの「高山家」がある。」